フィルダウス ―楽園―

  1. 一九七三年のサイクロン
  2. 金星
  3. 月の光も見たがらぬ
  4. 雨降り月
  5. 浄土

一九七三年のサイクロン



「ここで何しろってんだ。ポールダンスか?」
 吐き捨てるように言い、アリアンは銀色のポールを憎々しげに蹴飛ばした。
 ばいぃんという間の抜けた響きが、廃墟同然のストリップ小屋に響きわたる。
 たいして広くもない円形舞台を、意味なく右往左往して怒りまくるアリアンを、イトウはぼんやり目で追う。上の連中から理不尽な命令を受けるのは日常茶飯事だ。というか、組織の末端なんて、彼らの憂さ晴らしのために存在すると言っても過言ではない。けれどアリアンは生真面目で、バカにされるたびにこうやって本気で怒る。真っ当な理由で、真っ当に激怒する。ヤクザ稼業には向いていない。イトウはつくづく心配になる。
「さあな」
 言いたい言葉すべてを飲みこみ、なげやりに返事をする。イトウは椅子に沈みこんだ。イトウの重量に、劇場の観客席が耳障りな音をたてて軋む。深紅が日焼けして柿色と化した別珍風の化繊は毛羽立ち、ほとんどが禿げていた。手で触ってみると、たわしのようにごわつく。
「さあなって。他人事か。お前、いっつもそれだ」
「まあ、なんだ。性格だな」
 据わった目でイトウを睨みすえる弟分の視線を避けながら、イトウは煙草に火を付けた。安いヤニをめいっぱい肺に送り込み、一気に吐き出す。不定型な白い煙が、安普請のトタン屋根から漏れる昼の光に反射する。細かな埃がきらめいた。
「閉めて何年になるんだ、ここ。何も残っちゃいねえ」
 荒れ果てたプレハブの店内を見回す。見事なくらいに何もない。什器すら盗まれてすっからかんだ。
「二年」
 煙を吐き出しながら、イトウは律儀に正確な回答をした。
「日本女に入れあげてトんだ馬鹿がいたろう、あれが元のオーナー」
 二年前は、この島もたしょう景気が良かった。もっとも、政府主導のリゾート開発なんてのは頓挫するまでがワンセットのこの国で、本気の夢を見ていた奴がいたかは怪しいところだ。
 さっき歩いてきたばかりの畦道とアリアンの仏頂面を思い出し、イトウは笑いを噛み殺す。ひしゃげた廃屋がぽつぽつと軒を連ね、照りつける夏の日射しに乾いた土埃が舞って、二人のスーツを汚した。
「こんなクソ田舎に、アトマの野郎が現れるわけないだろう。クソガキどもの遊び場にだってなっちゃいない、ただのクソ廃墟だ!」
 興奮したアリアンが、ふたたびポールを蹴る。風俗店の悩ましげな主役は、かなしそうに鳴いて頑丈な身をたわませた。驚異的な脚力だ。
「万が一ってこともある」
 イトウはなだめるように言う。もちろん、そんなことはあり得なかったが。ジャカルタ最大規模の売り上げを誇るドラッグのディーラーが、こんな場所に潜伏しているなど万にひとつもない。
 アリアンが押し殺したような声で答えた。
「本気で言ってんなら殴るぞ」
 見れば半目でこちらを凝視し、固く握った拳が震えている。
「お、おい、少し落ち着け。いいかアリ、おれたちの――」
「アリって呼ぶな!」
 拳でポールを殴りつけ、アリアンは叫んだ。ポールは三度たわんだ。そろそろ折れやしないかと、イトウはそちらばかりが気になった。
 幼いころの愛称で呼ばれることを、近ごろの弟分は忌み嫌っていた。わかっていながら、イトウはつい呼んでしまう。いつまで経っても癖が抜けない。
「悪かったよ、怒るな」
 降参、と両手を挙げると、アリアンは渋面のままそっぽを向いた。
 今日の理不尽な『指令』は、獣が相手に覆い被さって抑えつけるマウンティングと同じで、「そう簡単に手柄を立てられると思うな」というメッセージでしかない。だが、もともと跳ねっ返りが強く、まっすぐな気性のアリアンには、それが耐えられない。野心が強いぶん、よけいに腹も立つのだろう。
「クソ!」
 悪態をつき、怒り疲れたのかアリアンはようやく歩き回るのをやめた。
 寂れたストリップ劇場が静まりかえる。
 屋根から、ト、ト、と叩くような音がした。頭上を振りあおぐ間に、それは断続的なバラバラという騒音に変わり、あっという間に耳慣れたザアアという雨音に変化する。かなり激しい。さっきまでの晴天からは想像もつかない。
 ぐったりとポールに寄りかかるアリアンを、イトウは見るともなしに眺めた。くゆらす煙の向こうに浮かぶ横顔には、まだあどけなさが残っている。それでいて、細身のダークスーツは数年先にこの道に入っていたイトウより、よほど似合っているようにもおもえる。
 不思議な色気が出てきたもんだな、と、まるで他人を見るように幼なじみを見る。目を閉じ、立ったままポールに頭を預けるその姿は、なんだか開演前のダンサーのようだった。翳った空からは光の供給が途絶え、自分のいる客席は客電の落ちた開演前のように薄暗い。すぐにもスポット・ライトが点灯し、けばけばしい紫とピンクが舞台を染め上げそうな気がした。安っぽい扇情的なムード音楽が鳴り、舞台の上のアリアンが物憂げに視線を上げる。そして――
「イトウ」
 藪から棒に呼びかけられ、イトウは椅子から数センチ浮いた。
「お、おう」
「来るかな」
「え」
 いや電気は通ってないから無理だ、やめとけ、としどろもどろになるイトウに、アリアンは怪訝な顔をした。
「何言ってんだ、お前?」
 何言ったんだ、おれ? とイトウも混乱する。
「ええと、わからん。ぼうっとしていた」
 しっかりしろよと呆れ、アリアンは舞台から飛び降りる。
「サイクロンだよ」
 軽やかに観客席までやってきて、イトウの隣に腰を下ろす。並ぶとイトウより頭ひとつ分背が低い。座るとその差が少しだけ縮まることを、イトウはひそかに悔しく思っていた。
「サイクロン?」
「ニュースで言ってただろうが」
「……あ、ああ」
 そういえば、空港のテレビでそんな言葉を聞いた気もする。
「ジャワより東で止まるって言ってたけどさ」
 これ、来るんじゃないか。
 アリアンが視線を天井におよがせる。つられてイトウも頭上に目をやった。半分以上割られたスポットライトが、未練たらしく天井にへばりついているのが見えた。
「インドネシアには来ねえよ」
 わざとそっけなく言う。アリアンは片眉を上げた。
「そんなの、わかんないだろ」
 ふにゃりと笑ってスーツの胸ポケットから煙草を取り出す彼の仕草は、まだどこかぎこちない。スーツだってよく見ればサイズが合っていないし、靴下はあろうことか白だった。おまけにくるぶしあたりに偽物のワニが覗いている。足元は、せいいっぱい虚勢を張った革靴風のスニーカー。
 ――さっきのアレは、見間違いだな。
 なんとなしに安堵したイトウは、煙草を咥えて火を待つアリアンに、来いよ、と顎をしゃくった。アリアンがあたりまえのように頬をよせる。互いの息が触れあうほど近づき、アリアンのまっさらな煙草の先端が、イトウの火口に当たった。アリアンが深く息を吸う。イトウの肩がわずかに強ばった。
 小さな火がボワとふくれ、すぐにふたつに別れて離れる。
 ぶは、とアリアンがまんぞくげに煙を吐き出し、イトウは無意識に緊張を解いた。ひとしれず、鼻から長い息を深々と吐く。
「昔のサイクロン、千人単位で死人出たらしいぞ」
「嘘つけ」
 適当こいてんだろと憎まれ口を叩くと、アリアンも「バレたか」と笑った。 
「でも、いま来てるのがデカいのは本当だろ? 俺ら、ここに閉じ込められたりして」
「ストリップ小屋に野郎と二人っきりかよ。勘弁してくれ」
 アリ坊とだけはごめんだとイトウが笑い、だからその呼び方はやめろとアリアンは怒った。

 一九七三年、インドネシアを襲ったサイクロン「フローレス」は、四月二十六日にバンダ海で熱帯低気圧として形成された。その後、西南西方向に進むにつれ勢力を増し、同二十九日、フローレス島の北海岸に上陸した。島全土を大雨が襲い、引き起こされた洪水によって建物や道路は壊滅的な被害を受けた。翌日にフローレスは消滅したが、パルエ島では一五〇〇人あまりの漁師が死亡したという。最終的な犠牲者は一六〇〇名以上にのぼり、南半球におけるサイクロン被害として最多を記録した。 

 嵐の到来をはらんだ灰色の雲の下、島の日曜日は刻々と暮れていく。
 未来は、つねに揺らいでいた。


金星




 未明のコバルトブルーに残された、爪痕のような月。直ぐ下に寄り添う光の粒は金星だ。
 取り残されたようなわびしさをただよわせる天体ふたつに、アリアンは既視感をおぼえて立ち止まる。しばらく考えにふけり、日直が消し忘れた黒板の落書きに似ている、と結論づけた。
 明け方のひんやりした外気が、シャツの襟元から忍び込んでくる。無意識にぶるりと身を震わせ、アリアンは背を丸めた。ジャンパーを羽織ってくるべきだったと後悔する。もう四月も半ばなのに、この寒さには、どうにも慣れない。
 眠れなくて散歩に出たはいいが、この時間に開いている店は一軒も見当たらなかった。朝の早い粥屋でさえ、そのシャッターをきっちりと下ろしている。香港はジャカルタより都会だと思っていたのに、アテが外れた。
 昼間とはえらい違いだ。
 組織からあてがわれた借りの拠点は、表通りから数本隔たった裏路地にある安宿だった。本格的に住む場所が見つかるまでのつなぎだから、居心地よりも目立たないことが優先された。瓦解しそうなビルの周囲には、同じような外観のアパートが所狭しと建ち並んでいた。
 だが、アリアンにとって驚きだったのは、そのにぎわいだった。多くの観光客や車が行き交う大通りだけでなく、ここ香港では路地裏もまた、猥雑な活気でごった返している。酒を提供する屋台、古道具屋、茶屋、鳥籠屋……。種々の店がびっしりと居並び、暇を持て余した老人の群れが、路上に持ち出した椅子にくつろぎ、碁を打つ。どこかの部屋でつけっぱなしのラジオからは、異国の音楽が流れてくる。長い長い竹の束をみごとなバランスで担いだまま、トップスピードで駆けていく人足たち。その間隙を縫うように走り抜ける、無数の自転車。おがくずと、それから乾いた獣の匂い。飛び交う挨拶、罵声、呼び込みの高い声。
 情報量の多さに目を回しかけたアリアンの頭上に、怒鳴り声が降ってきた。いったい何事かと見上げれば、まっさきに目に入るのは色とりどりの洗濯物で、よくよく見ればアパートの窓からは、物干しの竿が無数に突き出していた。色あせたジーンズ、煮しめたような色合いのYシャツ、深紅のレースが安っぽいブラジャー、けばけばしい黄色のパチモノヒーローTシャツ、青ストライプのトランクス、子供用のピンクのズック。
 大小無数の洗濯物が、なんの規則性もなく頭上に躍っていた。
 風にあおられてはためく様はじつに愉しげで、その混沌のなか人間たちが思い思いにおしゃべりをしていた。さっきの怒鳴り声の主はアパートの住人たちで、狭い通りを挟んだ窓越しに口喧嘩をしているのだった。
 だが、夜の通りは物音ひとつしない。
 寝息も聞こえない。人っ子ひとりどころか、猫の子いっぴき見当たらず、どこからともなくドブ臭い下水の匂いが流れてくるだけだ。生き物が自分のほかに存在しないと勘違いしそうになる。
 もう一度、空を仰ぐ。
 月と金星はあいかわらずそこに止まっていて、さっきよりさらに白々しく見えた。
 細い孤の真下に取り憑いた小さな粒。
 やはり、何かに似ている。
「あ」
 アリアンは足を止めた。
「ピアス」
 月と金星の位置は、アリアンの耳たぶに留められたピアスにそっくりだった。
 無意識のうちに、右手が右の耳たぶをなぞる。彼がピアスを開けたのは八歳で、初めての装身具には小さなコバルトブルーの石が付いていた。もちろん石はガラス玉で、幼心にダセェと思っていた。それなのに、後生大事に着けつづけた。
 ――なんで青なんだよ!
 不意に幼い自分の声が聞こえた気がして、アリアンは立ち止まる。
 振り返ってみる。もちろん、誰もいない。
 ――俺も赤が良かったのに。
 今のピアスは十八金で、控えめだがダイヤの粒があしらわれている。ささやかな見栄だ。
 ――赤はおれの色だから、ダーメ!
 空が白み始める。遠くで犬が吠えている。そろそろ、人も起き出してくるだろう。
 ――なんだよそれ、ケチ!
 組織からアリアンに支給されたネクタイの色は、赤だった。店のオーナーである証の色だ。
 ――それにな、アリ。
 夜空色のピアスは、ジャカルタを出るときに、棄てた。 

『お前は、青のほうが似合う』 

 アリアンは首を振る。それは違ったよ、イトウ。
「俺に似合う赤も、あった」
 前を向く。歩き出す。声が背後に遠のく。
 青と赤がいりまじる明け方の空の下、表通りからは早くも車の往来する気配がする。あちこちに点在する粥屋の主人たちが、けだるげに店のシャッターを引き上げる音が響きわたる。
 貪欲な街が目を覚ます。
 懐かしい声は、新世界の喧噪にかき消されるようにほそくなり、やがて消えた。

月の光も見たがらぬ




 ティン ・ザイ・ロン・イユ・ヤ・バ・ユン・ホン
 タ・ディ・ガン・クォン

 おれが鼻歌をうたうなんて、明日は雹が降るんじゃないか。
 記憶の底にあるメロディをたどたどしくなぞりながら、イトウは心のなかでつぶやく。
 二メートルはありそうな長身をもて余すように折り曲げ、黒いダウンジャンパーのポケットに両手を突っ込んだ。十一月の内陸は底冷えする。南国生まれのイトウに、この寒さはこたえる。
 胸糞悪いだけでほとんど意味のない仕事のために、こんな山奥まで出向くはめになった。自分ではなく、所属する組織の上層部が下手をこいたせいだ。しかし追えと言われれば追い、やれと言われれば殺すのが鉄砲玉の仕事だ。それが組織というものだと、イトウは身に染みて知っている。命令に従う以外に、自分の存在意義はない。そして、それを思い知らされるたび、強烈な怒りが身を焦がした。
 ただでさえ憂鬱なのに、こう冷えてはかなわない。成都の狭苦しい自室の、熱い風呂が恋しかった。
 鄙びた駅に列車が訪れる気配はない。数時間に一本だから仕方ない。
 駅のホームから無人の待合室を覗き込む。次に駅長室。どちらも夕陽で赤く染まり、床に長い影が落ちている。何度目になるかわからないその行為に飽き、イトウは退屈そうにあちこち視線をさまよわせる。ろくにメンテナンスされていないのか、ホームのコンクリートはあちこちひび割れ、そこからエノコロ草が顔をのぞかせていた。傾きかけた駅舎は今にも崩れそうで、雨どいには枯れ葉が吹き溜まり層をなしている。線路の向こうに遠く連なる山々は墨色に翳り、夕闇せまる空と溶けまざっている。

 タ・ディ・ガン・クォン
 タ・ディ・ガン・クォン

 イトウの低い声では、歌はまるで経文のように聞こえた。
 まだ若いといえる年齢だが、イトウは歌とは縁遠い人生を歩んでいる。だからなのか、歌っているイトウ自身にも、この歌が何の歌なのかわからない。ただ、無邪気なメロディとはうらはらに寂しげな節回しは、どことなく不吉だった。
 忌み歌なんぞ、縁起でもない。イトウは口をつぐむ。このところのイトウはラッキーづくしだ。どんな些細なジンクスにすがってでも、この機運を逃したくはなかった。なんせ先日、イトウは三合会直下の組織に配されたばかりなのだ。末端の末端もいいところだが、それでもエリートの仲間入りには違いない。何の伝手もないインドネシアの漁村のガキが、たった一人の力でここまで這い上がるなど、誰に予想できただろう。
 今日で、クソ溜めのクソ仕事とはおさらばだ。だから、今日はめでたい日だ。
 自分に言い聞かせるようにして、己を奮い立たせる。ふと昼間会った売人の姿が脳裡をよぎった。
 浅黒い肌と、濡れた仔犬のような黒い目、すこし波打った黒髪を持った背の低い男だった。一目で親しみを覚え、戸惑った。現場に現れたイトウを見るなり、男は逃げ出した。俊敏な身のこなしが、さらに郷愁に拍車を掛けた。その足はとても速く、イトウの鼓動は大きく鳴った。
 男は偶然、角から飛び出したホンダのバイクに撥ね飛ばされ、あぜ道に転がった。もしあの不運な事故がなければ、今ごろイトウは、いまだ山狩りの最中かもしれなかった。
 だが、追いついたイトウに向けて放たれた、男の決死の蹴りに、イトウは落胆した。逃げる脚力から予想されるほどの威力は、まるでなかった。空を切る脚は、イトウがひょいと上げた腕に簡単に跳ね返された。転倒し、男は泣き出した。
 イトウの追撃が荒くなってしまったのは、その醜態のせいだ。予定では銃を使うはずだった。だが、気がつけば何回か顔面を殴りつけた後だった。ついでとばかりに渾身の力で絞め落としたが、手ごたえはまるでなく、ただの弱い者いじめでしかなかった。
 足下に伸びた男の体を呆然と見下ろし、イトウはようやく自分が腹を立てていることに気づく。男の蹴りが、骨を突き抜けて魂を震わせるような代物ではなかったことに、許しがたい怒りをおぼえていた。理不尽だ。だが、イトウは爆ぜる怒りに身をゆだねた。
 スピードが遅い。
 位置が低い。
 腰が入っていない。
 これは違う。
 こんなのは、違う。
 肉体の記憶が不満げにそう叫び、それは喉から咆吼となってほとばしる。感情の奔流のまま動かぬ男を蹂躙し、それから、片付けた。
 全身を使って穴を掘る。そうしていると、激しい怒りが少しずつ消えていった。イトウは己の行状を忘れた。忘れることは最近のイトウの習慣であり、得意技でもあった。

 ティン ・ザイ・ロン・イユ・ヤ・バ・ユン・ホン

 また、歌っている。
 これってたぶん広東語だよな、とおもう。
 まだジャカルタにいた頃、三合会に入るには中国語も英語も必要で、しかも中国語には種類がたくさんあると聞かされた。
 勉強を嫌がってたら、いつまでたっても出世できねえぞ。おれは言葉なんかいらねぇよ、この拳があるからな。よく言うよ、俺より弱いくせに。何だと、やるか。負けるかよ。
 明日は、記念すべき出世の第一歩になる。ああ、それにしても、こう寒くてはかなわない。女に電話してみてもいいかもしれない。しばらく会っていない。名前はたしか――。
 出し抜けに突風が吹き抜け、イトウは身を縮こまらせる。山から吹き下ろす北風は、突き刺すように冷たい。いつのまにか日はすっかり暮れていて、駅は夜に沈んでいた。
 尻ポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつける。背を丸め、風から守るように立てた手のなかで小さな炎がゆらめく。わずかな灯りが、イトウの横顔を一瞬、暗闇にうかびあがらせた。
 フゥー、と煙を吐き出す。
 緊張がいくぶんほぐれた気がした。
 電車はまだ来ない。さっきの男を埋めた林にも、夜は訪れているのだろうか。土の下の浅黒い肌を想像してみたが、もはや親しみは覚えなかった。
 女の名前を思い出すには、しばらく時間がかかりそうだな、とイトウは平板におもった。

雨降り月




 アリアンの店(クラブ)は、とても小さい。
 不夜城都市マカオとはいえ、一等地にあるわけではなく、メインストリートに面してもいない。旅の口コミサイトで上位にランクインすることも、華やかなインフルエンサーたちがめかしこんで押し寄せることもない。
 入り組んだ裏路地をいくつも抜け、古い雑居ビルのガタつくエレベーターを経由しなければ、辿り着くことさえできない。一見ただの事務所めいた扉を開ければ、真っ先に出迎えるのは大音量の安い流行曲、そしてブラックライトに浮き上がるガラス玉でできた簾だ。暗がりに目を凝らせば、店の奥には生気のない目をした女たちがたむろしているのが見える。店のあちこちを蛍光ピンクのスポットライトが彩り、いかがわしさに拍車を掛けている。内装は、世界の流行から周回遅れたような垢抜けない代物だ。
 それでも、この店はアリアンにとって城だ。
 店内に集う面々に、堅気の者は一人もいない。皆、一様に暴力と金の気配を滲ませ、いや、誇示している。彼らの目的は、屈強なバウンサーが厳重に護る扉の先――三合会の主催する違法賭博にあった。
 インドネシア、フィリピン、中国本土、香港、上海。
 ありとあらゆる地でチンピラ稼業をして地べたを這いずり回ったアリアンの過去は、この店でようやく報われようとしていた。店のオーナーを任されて一年ほどになるが、稼ぎは上々、情報流通の場としても重宝されている。
 ゴネる客に対して、オーナー自らがおこなう「対処」も、ちょっとしたエンタテインメントとして上からの受けは良い。
『君に、もう一店舗任せようと思う』
 だから、その連絡が来たときも、正直に言えば当然だと自負していた。昇進テストの代わりに、「ちょっとした荷物」の輸送を任されたのも、想定の範囲内だった。今までも、この店がなにかの商品の経由地として、書類上利用されていることは承知していたし、それにまつわる厄介ごとなら何度も揉み消し、あるいは力尽くで対処してきた。
 夜になっても蒸し暑い外とは対照的に、無人の店内は冷え切っている。
 効きすぎた空調を調整する気にさえなれず、肌を粟立てたままアリアンはグラスを呷った。ぬるい液体が喉を下りていく。食道がカッと熱を帯びる。度数が高いだけで無味の酒だが、喉ごしが甘い。感覚が麻痺してきた証拠だ。空白が忍び込むのを恐れるかのように、間髪入れずに酒をつぎ足す。手が震えるせいで、グラスと酒瓶がガラス製の天板にぶつかって耳障りな音を立てた。
 テーブルの脚はクロムメッキ加工を施されたスチール製で、打ちっぱなしのコンクリートの床とのコントラストが寒々しい。イタリア製という売り込みだったが、アリアンとしては天板の強化ガラスが割れにくい所を気に入っていた。シャンパンボトルをも砕く石頭の客のツラをおもいきり叩き付けても、このテーブルはびくともしなかった。
 今、その上にはスピリタスの空き瓶がずらりと並んでいる。おかげで小洒落たインテリアとしての雰囲気は台無しだった。すべてアリアン一人で空けたボトルだ。尋常な数ではない。
 さらに数度グラスを空にしおえた頃、座ったままの視界がぐるんと一回転した。水中にいるみたいに、聞こえるすべての音がぼやけ始めている。体内でうごめく自分の内臓の音が耳につく。
 あと一、二杯飲めば、俺は死ねるだろうか。
 漠然と考えながら、鈍った身体をどうにか動かしてシャツのポケットをまさぐった。煙草のパッケージを取り出す。手にした瞬間イヤな予感がしたとおり、ひしゃげた箱の中身は空だった。グシャリと音がするまで握りつぶし、床に投げ捨てる。腹立ちまぎれだった。煙草がないことではなく、火を付けずに済んで安堵した、自分に対してムカついた。
 ――しゃらしゃあら、しゃんしゃん。
 突如、耳元であの歌声が甦り、アリアンは凍りつく。
 ずっとだ。
 港で聞いたフレーズが、ずっと耳の奥で鳴っている。
「いまさらかよ、この偽善者が」
 隣に座る男が煽る。そのとおりだった。
 人の道など、もとより外れている。あれしきのことで死にたがる自分は、滑稽をとおりこしてグロテスクだ。そのうえ、死に方を選ぼうとしている。酒か煙草を用いて死ぬのが相応しいと、どこかで思っている。ガキか。凡庸だ。死ぬほど凡庸だ。しかし実際は死ねないのも、やはり死ぬほど凡庸だ。
 凡庸さで死ねないのは何故だ。
「なにクネクネしてんだよ。その酒、頭から引っ被ってマッチ擦ったら一発だろ」
「るせえ、消えろ」
 無遠慮に野次る男のほうを見ようともせず、アリアンは吐き捨てる。
 ぐしゃぐしゃと頭を掻き毟ると、白いシャツが肩のあたりで突っ張った。馴染んだはずのスーツの着心地が、今はどうしようもなく疎ましく思えた。
「すげえ顔してたなあ、あの娘」
 場違いなほどのほほんとした声で男が言う。
 コンテナに「商品」としてつめ込まれていた女たちの中でも、直に顔を見てしまったのは、一人だけだった。
「歌が」
 アリアンは呻く。
 かすれた歌声が、ぬるい夜風に乗って届いた。異国のもの悲しい曲調も、その時は気にならなかった。ただ仕事の不備に怯え、探しまわったあげく、輸送予定のコンテナ群のなかにひとつだけ、扉が開いているのを見つけた。
 発見できたのは幸運だった、とアリアンは自分に言い聞かせる。
 小さく開いた扉のなかを覗き込むと、闇の奥に複数の人間が蠢いていた。大量の女だ。驚きはしなかった。アリアンの店にもいる。薄汚く、疲れ、怯えきった貧しい女だ。
 その中の一人が、歌っていた。
 しゃらしゃあら、しゃんしゃん。
 異国の言葉だった。ただ、鉄の扉を勢いよく閉めるその時、そのワンフレーズだけがはっきりと聴き取れた。女と目が合った。まっくろい、点のような目。感情というものがいっさい感じられない。虚空の一点を見つめ、顎のあたりが不自然にこわばっている。ひび割れた唇が裂け、黒い血が固まっていた。
 しゃらしゃあら、しゃんしゃん。
 錆びた鉄の匂いがした。檻の扉が閉まる金属音は、ギロチンが落ちる音に似ていた。
「へえ。お前、ギロチン生で見たことあんのか」
 男がへらへらと笑った。返事代わりに舌打ちをする。
「ねぇよ」
 あれは、生きながら死んでいる人間の顔だ。思い出したくなどないのに、脳の奥から網膜に映像が投射されつづけて、自分では制御がきかない。
 あれらは、人間として扱われなくなって久しいはずだ。アリアンの店にいる何割かは、あれらと同様に商品としてやって来たから、よく知っている。掃いて捨てるほどいる。ありふれた地獄だ。
「ありふれてるから、平気だと思ってたのか」
 男は意地悪く笑う。
 地獄には底がない。
 知っていた。そのつもりだった。
 それから、店に戻り、酒を浴びるほど飲んでいる。コンテナの重い扉、壁に取り付けられた酸素濃度計、なまぐさい磯の香り、表情のない目、目、目。うらはらにおだやかな歌声。
 しゃらしゃあら、しゃんしゃん。
「相も変わらず、繊細なんでちゅねえ、仔犬ちゃんは」
 自分の両てのひらを凝視するアリアンを、男が茶化す。
「黙れよ、妄想野郎。寒いんだよ」
 言い返したアリアンの呂律はあやしく、語気も弱々しかった。
 船は今ごろ、フィリピン湾めざして航行中だろう。
 俺だって、一歩間違えばあちら側だ。何を傷つくことがある。
 酔いで火照った身体だが、手足は芯から冷え切っていて寒い。ふるえながら、アリアンはさらにスピリタスを注ぐ。不如意な手元は透明な液体をこぼし、コンクリートの床を汚した。磨き抜かれた革靴にも跳ねが上がる。鬱陶しさがつのる。
「おいおい、まさかマジモンの鬱か? 自責の念ってやつか?」
 ガタガタ震えはじめたアリアンに驚いたのか、男はほんの少しだけ真剣な顔つきになった。
「あの女たちは遅かれ早かれ、ああなる運命だろうが。お前のせいじゃない」
 いつの頃からか、アリアンの頭には、この男が棲みついている。強烈な孤独に苛まれる夜にだけ、こうして姿を現す。たいていは死んだらどうだと誘惑するのに、今夜にかぎって彼は、悪魔のように優しかった。
「荷物にもしものことがあってみろ。今度はお前があっち側だ。お前はお前の仕事をしただけだ。疲れてんだよ、たまには良い女でも抱いて、さっさと寝ちまえ」
「……お前は、」
 くっきりと太い眉の下にある、人懐こいタレ目。面長だが鼻筋の通った顔立ちは、記憶のなかにある彼の顔そのものだ。けれど、どこか人形のような不自然さがある。彼が本来持っているはずの、あふれんばかりの生命力に欠けているせいだ。光のない穴のような双眸は、コンテナに詰め込まれた女たちのものとよく似ていた。
 気遣うように覗き込む男の顔をしげしげと見返し、アリアンは答える。
「いつだって俺が苦しむほう、苦しむほうへと誘導してきたよな。ってことは、今ここで死んどくのが、俺にとってはおトクってことか?」
 無理に作った笑みを頬に貼り付ける。顎のあたりが強張り、乾いた唇が裂けた。
「傷つくこと言ってくれるな、相棒」
 幼馴染みによく似た風貌の幻は、白い歯を見せて笑った。
 はるか頭上、構造がむき出しの天井から吊された裸電球に、小さな羽虫がぶつかった。アリアンの耳はアルコールで狂ったチューニングのまま、その音を最大ヴォリュームで拾いあげる。コツンと硬い音。ジュッとなにかが灼ける音。カサリと床に落ちる音。
「誰が相棒だ」
「なあアリ、覚えてるか」
「アリって呼ぶな」
 つぶやいたアリアンの声は頭蓋に反響し、ハウリングを起こした。耳が、自分の声でじわりじわりと傷んでいく気がした。
 不意に、幻影が歌った。
 低い声だった。脳にこびりついた女の歌を洗い流すように、子守歌のように、優しく、あたたかく、アリアンの耳をすべりおりてゆく。

 天际朗月也不愿看
 明月吐光 冤鬼风里荡荡

 テレビ番組の主題歌だ。
 幼い日、彼と二人で夢中になって見た。強い道士が、墓から甦った化け物をやっつける。他愛のないコメディだが、あの化け物が当時のアリアンには心底恐ろしかった。そして、恐れていることを彼に感づかれるのは、もっと恐ろしかった。怖いシーンになるたび、アリアンは強がって目を見開き、そんなアリアンの前に、彼はいつもさりげなく立ち塞がった。
 鬱陶しく、優しい背中。遠くに見える幻影に、アリアンは言う。
「あんた、まだ俺を呪う気か?」
 ポン引きの真似事をしたガキを前にして、あの日、俺は凍りついていた。ふるぼけたリボルバーの引き金が、どうしても引けなかった。お前は俺から銃を奪い、撃った。組織は俺を簀巻きにしてゴミ処理場に放り出し、お前は旅立った。振り返りもしなかった。俺のことなんか忘れて、お前は一人、海の向こうに行ってしまった。
 だが、俺は蘇った。
 ゴミ溜めから這いだし、こうしてここまでやって来た。お前に勝つために。もう化け物は怖くない。俺だってやれる。やれるんだよ。なあ――

 答える者がとっくにいなくなった場所で、アリアンは背を丸めて歌い続けた。
 夜が明けるまで。あの背中が漕ぎ出した海に、いつか辿り着くまで。

 
 鬼と呼ばれて 幾歳か
 針山 血の池 屍森 
 虚ろの洞にゃ 赤い月
 炎舞う闇 地獄行き
 おれに名はなし 外道の途の……
 
 
 M4カービンの銃身が熱い。歌は止まない。おれが歌っているらしい。胸から下げた石がつめたい。赤い石。後生大事に持ち歩く、豆粒ほどの石。なぜ。忘れた。殺した。殺した。殺した。殺した。何のため。忘れた。許されない。赦しはいらない。

 潮騒が聞こえる。

浄土




 いままでに死んだことは一度もなかった。けれど彼は自分の死をすぐに理解し、受け入れた。
 目の前には海が広がっている。
 無人の浜辺に立っていた。
 永遠につづく水平線と砂浜。
 砂は白く、さらさらと素足に心地よい。
 最期の記憶は曖昧で、ピントのぼけた映像ばかりだ。思い出そうとするほどに遠のく。背中が痒いのに、掻けば掻くほど、どこが痒いのかわからなくなるのと同じだ。
 甘い香りが鼻腔を抜けていく。葬式で使われる花の匂いに似ていた。だが、あたりを見回しても植物は見当たらない。では、自分の肉体はいまごろ、棺にでも詰め込まれているのか。いいや、それは間違いだ、と彼の直感は告げる。拳の下で骨の砕ける感触がはじけた。錆びた釘が喉のやわらかい皮膚をやぶり、咽頭に到達する。激痛が迸る。この苦痛は、記憶だ。
 彼は目をしばたたく。
 コンクリートに積もる土埃の匂い。金属の匂い。血液の。涙の。ぶちまけられた人間の中身の、匂い。廃倉庫。重そうな扉、それを開けて去って行く男、のっぽのシルエット、ふらつく足取り。背中。大きな背中。
「イトウ」
 名前は自然にこぼれ落ちた。
「イ・ト・ウ」
 彼はその名を口中で確かめる。舌と歯と唇を使って、一音いちおんに命が宿るかのように、ていねいに、注意ぶかく発音してみる。舌の根が燃えた。死の直前もそうだった。
「アリアン」
 アリアンは振り向く。
 イトウが立っていた。
 同時に、そこが海ではなく、廃倉庫であることに気づく。
 アリアンは、自分が死んだ場所にずっと立ち尽くしていた。
「ようやく思い出したか」
「思い出した」
 呆けた声で返事をし、アリアンはぽかんとイトウを眺めた。
 イトウの姿は、最後に見たときよりだいぶマシになっていた。怪我はあらかた治り、血も流していない。こざっぱりしている。だが、右頬には大きな傷跡が見えた。業務用カッターナイフの刃で、内側から切り破られたような傷跡が。
 傷は、なぜだかイトウを以前より頼もしく見せていた。
 それを正直に伝えると、イトウは笑った。
「恩着せがましい奴」
「ごめん」
 素直に謝るアリアンに、イトウは少しだけ戸惑ったようだった。
「頭でも打ったか?」
 こんどはアリアンが笑う。
「打ったどころじゃない」
 蜂の巣だ、蜂の巣。と答え、そういえば銃弾の痕は、魂には残らないのだなとおもう。やはり、銃はファスト・フードみたいなものなのだ。
「声、なんともないんだな」
 言われてみれば、イトウに破かれた声帯は元通りにアリアンの声を鳴らしている。
「仏のサービスかも」
 執着は悪だと、仏は説いたらしい。そんな話を聞いた。
 あれは、血の誓いを契る儀式の、もうもうとした煙の中でのことで、あの頃は仕える神を変えてでも欲しいものがあった。行き先は知らず、興味もなかった。
 執着が苦しみを生む。すべて一切は過ぎてゆくだけ。
「どうしても、お前を置いていけなかった。だから、残っちまった」
「恩着せがましいのは、どっちだ」
 照れくさくなったアリアンがそっけなく返すと、イトウはまぶしそうに目を細めた。
 アリアンは、イトウのその顔が好きだったことを思い出す。執着が悪なら、思い出も間違いなく悪だ。アリアンは破顔する。イトウが、アリアンの笑顔を好いていたことを思い出す。
 倉庫を閉ざす鋼鉄の扉の向こうから、かすかな潮騒が聞こえてくる。
 煮え滾る海があるのだろう。太陽が溶けたような、真っ赤な海が。
「なあ」
 アリアンはイトウに呼びかけた。
「俺たちは海を渡った。そうだよな?」
「ああ」
 イトウがアリアンに向かって頷く。
 鈍重な扉が音もなく開き、視界をあかく染めた。
 二人の顔に、これ以上ないほど誇らしげな笑みが浮かぶ。
 行き先は知らない。興味もない。

初出:2021年2月27日シネマパラドックスリターンズ・無配PDF
photo by Stijn Te Strake on Unsplash

引用 「鬼新娘」作詞:鄭国江、作曲:聶安达
   「雨降りお月さん」作詞:野口雨情、作曲:中山晋平

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